蔵が無くなるということは、長年地元の方たちに愛されてきた味、言うなればその地域の食文化が失われるということ。 「蔵の最後を見届けたからこそ、この味は残していかなければ…」 その想いから始まったのが、「袖ふり味噌 復活物語」です。

越後味噌醸造と、袖ふり味噌

越後味噌醸造は、新潟県燕市の旧吉田町にて1771年に酒蔵として開業し、1931年から本格的に味噌の製造がスタートしました。そして、1968年から製造開始したのが、「袖ふり味噌」になります。

その袖ふり味噌の原料となるのが、北海道十勝地方にある音更町(おとふけちょう)で生産されている「音更大袖振大豆」です。大袖振大豆は品種改良されていない原種の貴重な大豆で、イソフラボン含有量は一般的な大豆の2倍以上もあり、濃厚な旨みと強い甘みが特長です。その大豆を使用した袖ふり味噌は、芳醇な香りとコク深い味わいがあり、地域の方々はもちろん、全国にもファンが多く、愛されている味噌でした。

蔵の終わり、失われていく食文化

九代目が 越後味噌醸造での修行を終える際に、後継者不在の問題、さらにはコロナ禍も重なったことで、令和2年12月末、250年に渡る歴史に幕を下ろすことになりました。

長年、地域の食文化を支えてきた味が消えてしまうという事は、その事実以上に大きな影響があると思います。

「味噌」に関しては、「会津みそ」をはじめ、「仙台みそ」や「信州みそ」の他、東海地方の豆みそや九州地方の麦みそなど、日本全国の味噌蔵が各地域の特色を活かして製造しており、その土地々々の食文化を形成し、それが「田舎の味」や「家庭の味」となり、私たちの成長に寄り添ってきました。そして、行く先々で他地域の味噌を味わうことにより、自分たちの地域や家庭の味との違いを認識し、その違いを楽しむことが出来るというのが、我々味噌蔵が作ってきた「豊かな食文化」だと思います。

しかし、越後味噌醸造のように、高年齢化や後継者不在など恒常的に様々な問題を抱えつつ、ここ近年のコロナ禍に加え、今では原材料費などコストの急騰も重なり、どうしようもなくなった結果、その歴史に幕を下ろさなければならない…これは味噌蔵に限らず、特に地域の食文化を支えてきた中小企業には、そういう現実に直面しているところが多々あるのです。

さらに言うと、田舎の味噌蔵がひとつ無くなったからといって、私たちの食卓から味噌が消えることはありません。近所の量販店には、大手企業の低コストで大量生産された味噌が並んでいます。もちろん、大手の企業努力があるからこそ家計に優しい安価の味噌が手に入るのであって、それを否定するわけではありません。ただ、それぞれの地域で培ってきた味や食文化が、全てそれに取って代わられるとしたら…果たして日本の食文化は豊かと言えるでしょうか。事実、これはそう遠くない未来の話かもしれないのです。

復刻 袖ふり味噌

当蔵は越後味噌醸造よりも全然小さな蔵で、自分たちの仕事をするのに精いっぱいですので、事業継承などという大それたことは到底出来ません。ただ、蔵の最後を見届けたからこそ、せめて「袖ふり味噌」の味は残していきたいとの想いから、「袖ふり味噌 復活物語」プロジェクトをスタートさせました。

当時と同じく北海道産大袖振大豆を使い、初回仕込み時には、実際に越後味噌醸造で造られていた「袖ふり味噌」を種味噌(発酵熟成の種として使う菌が生きている生みそ)ならぬ、「蔵の魂」として注入し、八二醸造の伝統製法で丁寧に仕込み、発酵・熟成させました。

そして、令和5年1月。「復刻 袖ふり味噌」として、リリース致しました。

大袖振大豆の濃厚な旨み、そして芳醇な香りとコク深い味わいがしっかりと表現されており、ひとつの商品として自信をもっておすすめ出来る味噌に仕上っております。

越後味噌醸造で過ごしたのはたった2年間でしたが、これから蔵を背負っていく立場として、蔵の最後を見届けるという「したくはない」体験が出来たのは貴重なものでした。

手前共の蔵も、ありがたいことに230年以上の歴史を繋いできました。この歴史の1ページに「復刻 袖ふり味噌」を加え、越後味噌醸造が繋いできた食文化を受け継ぎ、この味がまた愛され続けるように、これからも醸し続けていきたい所存です。